2015/11/09

将棋と詰将棋

まず最初に断っておきたいのは、私は詰将棋が大好きであることです。そしてそのことと、私が詰将棋そして詰キストの限界を述べることは何ら対立することではないことです。愛ゆえのムチとかそんな情緒的なものではなく、ただ単に、両者には負の相関はないことだけ伝われば、私の趣旨と相違ありません。

今回将棋連盟で出題された詰将棋についての議論がありました。
詰将棋ではない。まあ確かにそうです。余詰がありますからね。解答が一意に決まっていないのはHP出題作として問題でしょう。しかし、裏を返せば余詰を解消すれば詰将棋として全く問題はないということになります。
え、そうじゃない?つまり「こんなつまらない稚拙な内容の詰将棋は詰将棋ではない」と言いたいのでしょうか?これには同意しかねますね。「こんな詰将棋でお金をもらっている」?そりゃもらうでしょう。仕事なんだから。この詰将棋を出題する意図を考えてみれば、そもそも集客力のあることが大切なのですから、ネームバリューは最優先事項でしょう。その上で解きやすく、実戦的な手順がいいですよね。詰キストに出題をお願いしたら、ともすれば入り組んだ中段玉を提出してくるかもしれませんからね。出題作を解く層がどんな人々かを考慮して、適切な難度で、取り組みたいなぁと思う出題が一番大切なことではありませんか?もちろんその上で内容も追求することができれば、それに越したことはありません。しかしそれは詰将棋作家とやらにも難しい課題と感じるのですが、どうでしょうか。もちろん鈴川さんがおっしゃっていた「リユース詰将棋」の提案も、新たな解決法としてよい提案だと思います。

それはそれとして、私はネームバリューもとても重要なことだと思っています。指導対局だってそうです。指導してもらった内容自体も大切ですが、どんなに素晴らしい指導であってもたった一局という限界があります。内容量的には、日々の何十局、何百局もの積み重ねのほうに軍配が上がるでしょう。だからといって、わざわざ指導対局に出向くのは時間の無駄使いと言いたいのではありません。
私は将棋がさっぱり分からないのでただの想像になってしまうのですが、プロ棋士の方々実際のオーラをまともに浴びながら、駒を動かすのはある種の特別な感覚があるのではないかと思うのです。そうでなくとも、『プロの○○先生と指してもらった。褒めてもらった。教えてもらった』というハレの舞台での経験は、その生徒のモチベーションをどれほど上げることでしょう。そもそも人はモチベーションがなければ続けられないし、続けられないならば学べないのです。指導対局には数百局の価値があると思います。詰将棋の出題だって同じです。『○○先生との力試しで、うんうん悩んでなんとか解けた』といった経験は、プロ棋士の出題だからこそ生まれるコミュニケーションだと思いませんか?指導対局には指導対局以上の意義があるように、詰将棋出題には詰将棋以上の意義があるのです。その付加価値にお金が払われているのであって、私はプロ棋士の報酬が不適当な金額だとは思いません。原価厨は嫌いです。

私はどんな分野であれプロフェッショナルを尊敬しております。その分野を究めるために、血の滲むような努力をしてきた点ではみんな同じだからです。まあ尊敬しないのも自由でしょうが、その上で詰将棋のプロは尊敬しろというのはちょっと身勝手が過ぎるんじゃありませんか。
またソフトの存在が棋士の存在意義を脅かすとも思っていません。もし仮に将来全ての棋士の業務をソフトが喰ったとしても、これまでプロ棋士の方々が積み上げてきた熱戦の歴史や将棋普及の努力が無に帰すわけではないでしょう。

「詰将棋の世界に入ったきっかけは?」という質問があったとしましょう。例えば私は『盤上のファンタジア』と答えるかもしれません。しかしこれは厳密に言えば間違いでしょうね。それまでに「初心者のための○手詰」などを読んでいたかもしれません。3手詰を解けて嬉しかった経験がなかったら、ばか詰5手をつくり続けることなんてしていないでしょう。
もっと遡れば、私に駒の動かし方と駒得の概念を教えてくれた祖父とも言えるかもしれません。一部の天才は違うのでしょうが、少なくとも私のような一般人では、いきなりマニアックな詰将棋を見せられても到底理解できません。何故ズバスバ駒を捨てるのは気分が良いのか?なぜナラズや香先香歩は妙手なのか?マニア詰将棋を解するための素養や価値観、それを育む環境を、如何にマニア詰将棋以前に依存しているか!

そんなこともあって、私は詰将棋と将棋を別物と扱いたくないのです。そして実際に別物と思ってもいません。うまく言えませんが、詰将棋というもののディープさはスペクトラムで表されるということになるでしょうか。詰パラ本誌でも(構想作か手筋物かなどなど)ディープさの好みが分かれるぐらいなのですから、読者層が異なるならばその消費者が想定し、期待する詰将棋像が異なることなんて当たり前すぎます。片方の価値観でもう片方を批評することがどれほどナンセンスなことか、変に詰将棋に詳しくなると忘れがちです。

今回の主題としては、詰キストの価値評価基準が世の詰将棋すべてに適用できるわけではないということになるのでしょうか。それぞれの詰将棋は出題場所によって役割があって、役割が違うのならば消費者も違うでしょう。消費者が違えば商品への価値基準も違う。詰キスト的に好作か不良品かの判断基準が、あちら側で果たして重要な争点なのか、たまに疑問に感じるのです。逆も然り。将棋連盟での出題作に詰パラ基準で文句をぶつけるのが正しい行為ならば、詰パラの出題作に向かって「新構想なんていいから右上の実戦型で解きやすいものを出せ」と文句を言うのも正しい行為になるはずですよね。例え向こうの世界で詰将棋が添え物のように扱われたとしても、こちらの世界で将棋が添え物である限りお互い様です。双方の歩み寄りはそれぞれの良心に頼るしかないのですから、マニアにはそこに自覚的であって欲しい。

分かる人だけ分かればいいなんて、実際に分かる人がいるから言えるセリフです。だって皆さん、詰将棋出題すれば誰かしらは取り組んでくれると思っているでしょう?
分かる人はそもそもどうやって生まれるのかについて考えを巡らせて欲しいのです。普及活動、地道な営業努力は、絶対に馬鹿にしてはいけないと思うのです。

最近のことです。私は気まぐれに所謂指す派の後輩に詰将棋を解いてもらいました。だいたい、指す派の方々に出題したときの感想は難しいか易しいかのどちらかしかありません。しかしこの時の彼は笑いながら「これ面白いですね」と言ってくれたのです。マニアの方々に褒められたときももちろん嬉しいのですが、私はなぜか、今回が一番嬉しかった。こんなに詰将棋をつくってよかったと思ったのはこの時が初めてでした。

長々と失礼しました。しかしさすがに今回は書かざるを得ませんでした。時折詰将棋界に感じていた、息苦しさと気味の悪さを高濃度に浴び、結構陰鬱な気分です。今後の記事は明るい前向きな話題を考えているので、ご期待ください。

とり研も忘れないうちに
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コメント

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No title

詰将棋を語るのに何の資格もいらないでしょう。ルールさえも知っている必要はないのです。詰キスト(古今問わず全員)の考えている「詰将棋」って詰将棋の神様からみれば非常に狭義ではないかと思っています。個人的には素晴らしいと思う作家の人は沢山いますが、詰将棋の神様からは全員ゆる詰作家と見ていると思うし、そんなゆる詰作家がゆる詰作家を嗤っている姿は滑稽に見えているのではないでしょうか。詰キストこそ人間の詰将棋の力のなさに気づきやすい存在であってもいいと思うんですがね。尊敬する某氏の言葉を借りれば「ちょっと詰将棋を分かった気になっている」人が目立つように感じます。
もちろん一生懸命頑張った人には、詰将棋の神様は、その人が遺した物にかかわらず「よく頑張ったな」と言ってくれると信じています。だから今日も誰も見向きもしないフェアリー駒やルールを使った作品なんぞ作っている訳なのです。長文失礼しました。

No title

詰将棋がわからなくなってくる経験はよくあります。一応自分なりに頑張って創作しているつもりなのに、そのルールの面白さのこれっぽっちも引き出せていないような感覚に常に苛まれますね。もちろん神様にも微笑んでほしいですが、人間である以上人間同士のコミュニケーションとしての詰将棋でも頑張っていきたいスタイルです。